「幸せ」って言葉は意識してしまうとなかなか使えない言葉かなあと思うけれど、ウチにいる猫の姿を眺めていると「うっわあ・・・幸せだなあ・・・」と勝手に心がうるうるしてしまう。子どもの頃から犬を飼って猫を飼って、かなりの喘息もちだというのに動物を飼い続けているけど、いまだに心がうるうるするなんて自分は本当に好きなんだなあと、他人を見ているようにほほうと感心してしまいます。そんな猫達は何をしているかっていうと、一匹が部屋の隅に追い詰められて、毛を逆立てて目をまんまるくして「ほーっ!」と威嚇しているところに、もう一匹が床にへばりつくようにして耳をぴったりと伏せて徐々に間を詰めていく。そしてふぎゃーーーっ!とお互い取っ組み合いのケンカ・・・という遊び。遊びですたぶん。
6匹も猫がいるので、当然家の中は荒れます(笑)テーブルの上に合ったものは翌朝床に落ちているし、カーテンはすぐに破けるので消耗品扱い。ふんわりとした毛玉が西部劇のごとく床を転がり、あちこちに爪の跡が・・・。ああ猫がいなかったらもうちょっとこの家はキレイなんだろうなあとは考えるけれど、(猫が飼える状況なのに)飼わないという選択肢がはじめからないので、その考え自体が無駄ということになる。娘が発表会でもらったタテ(楯)の隅をいきなり猫にかじられて頭にきたけれど、だからと言って猫を飼わなきゃよかった・・・とはならないのです。
自分にとって「幸せ」なことって、はじめっから明らかに答えが出ている。そう思います。「幸せ」であることによって付随するしんどいことつらいこと向き合いたくないことがあるからといって「幸せ」から離れてしまうと、自分はやることがなくなってしまう。暇つぶしに遊んで笑って、ふとした時に虚しさを感じて。時間を消化する感じ。
忙しかったり、体力的にきつかったりして自分に余裕がなくなると、この「幸せに付随するもろもろのネガティブなこと」を受け止めきれなくなるのかな。「幸せ」自体から逃げ出したくなります。自分で自分を壊すみたいに。今受け止められない事柄があるという人は、自分のかわいがり方が足りないのかもしれない。
余裕のある自分でいさえすれば、探そうとしなくてもはっきりと「幸せ」が見えるし受け止められる。そのために多少無理をしても、自分を優先させて休ませてかわいがってあげないとね。
娘がお世話になっていたギターの先生は、ご自身が経験された戦争の話を聞かせてくれました。レッスンの時間に平気で遅刻してくるし、指導を忘れて?話に夢中になっている間にレッスン時間がどんどん延長したりユニークな先生で。
「宿舎で仲間とわいわい話をしていて、先輩から『何か買って来い』と言われておつかいにでたんだ。その間に空襲があってね、僕が宿舎に帰ると、ちょうど僕の寝床にいた先輩が亡くなっていた。おつかいに行かなかったらきっと僕がそこにいた。たまたま生きてたんだ。僕はね、そのとき思ったんだよ。もう僕の命はなくなったも同然なんだから、これから先はなくすものはない。自分の好きなことをしていこうってね。」確かこんな話。
そうしてギターを弾き、月日が経っておじいちゃん先生と呼ばれて、当時まだ4歳だった娘に楽しそうに教えていた姿を思い出すと、じわーっと涙が出てくるんですよね。憧れているのかな、先生の生き方に。ときどき思い出します。