娘がバスケットボール部を引退しました。下級生が送る会を設定してくれて、交流試合あり、踊りあり、コント?ありの「最後までハード」な時間を過ごしてきました。私のあわただしい時期と重なっていたために、試合の応援に行くことも少なくお手伝いもできなかったのてすが、他のメンバーに励まされて、他の保護者の方々から助けられて、幸せな子だなあ・・・と会に参加して感じました。
技術レベルに差があったり、それぞれの強みや弱みがある中で、自分はチームに貢献できているのかなと引け目を感じたり焦ったりしながらぶつかる姿を見てきました。
メンバーがそれぞれに「こうしたほうがいいよ」「それは良くない」と意見して対立したり、気持ちが揃わず苛立ったり。それらを繰り返しながらチームとしてまとまっていくのを娘の様子から感じていました。
私自身はスポーツはやっていたけど個人競技だったので、自分の記録との戦いをひたすら続けていた記憶ばかり残っています。どのようにしたらもっと記録が伸びるか、体をどう鍛えたらいいか。チーム競技だと、個人的な成長とチームとしてのまとまりが複合的に反映されて結果につながっていく。チームを構成するひとりひとりがどう関わったら全体としての力が上がるのか。娘はとっても難しいことに取り組んでいたんだなあ。
個人ベースで結果を得ようとするときの考え方と、チームベースで結果を得ようとするときの考え方って違うなあ。どちらも「個の力を最大に引き出す」点では共通していそうだけど、その種類が違う。
スポーツの枠から離れて、私の生活で個人ベースで考えていることとチームベースで考えていることってどんなことかなあ。家事でいうと、個人ベースでは「食べたいときに食べたいものを作る」「居心地の良い、自然とつながりを感じる空間を作る」「不潔にならない程度の洗濯掃除」もともと得意ではないので、消極的な思いが強いけれど、これを家族ベースで考えれば「疲れを癒やす、安心して家族が集う空間を作る」「体を作る食事」とニュアンスが変わってくる。どっちも私の中にあることだけれど、視点(個人ベースor家族ベース)によって引き出されるものは変わってくる。
だったらさらに視点を広げたらどうかな(ご近所さんベース)。またさらに広げたら(町ベース、都ベース、国ベース、世界ベース・・・)どうだろう。
視点の切り替えがスムーズにできる人ほど、自分自身の欲求と、客観視した自分の貢献する姿とのバランスをとりやすいはず。そして視点を広げるほど、自分が貢献できてるか云々はもう気にならなくなる。私が家事をするかどうかはどうでもいい。たくましく生きる命のひとつとして、世界にただ色を添えている。
私が子どもの頃、夜布団に入り目を閉じて眠るまでの間、よくしていたことがありました。自分の部屋の布団からスタートして、次第に上昇して天井を突き抜け、夜空の高い高いところからなじみのある町の静かな景色を眺めていました。まだ起きている人もいる、もう寝てしまった人もいる。お風呂に入っている人もいる、テレビを見ている人もいる。いろんなたくさんの人の中の、私もそのひとり。幽体離脱とかではなくてあくまでもイメージなのですけど、夜風が気持ちいいし安心する時間だったのをおぼえています。そして眠りを経てまた個人に帰る。私なりのバランスの取り方だったのかもしれません。
娘にはやりたいことがしっかりとあります。飽きやすいけれど、短期間にもの凄く集中して楽しみながらモノにしていく。ひとつ消化すると新しい目標が現れてすぐそこに向かう。わからないことが多くても気にしない。羨ましいなあ。