こんにちは。久しぶりの更新になります。自分でもどうやって文章を書いていたのか忘れかけていたのですが、なんとか戻ってきました(笑)
きっかけは今年初めに参加した『松葉舎開校イベント』での江本伸悟さんの体験授業(タイトルをメモし忘れました『サンゴ礁という群れに心はあるのか』というテーマ)・森田真生さんの講演『「身の丈に合わない理想」を生きる場所』でした。東京大学で物理学や数学をそれぞれ専門にされてきた若い学者さんの話に、新年早々頭の中を(いい意味で)ぐしゃぐしゃにされてしまい、ブログに何を書いたら良いかさっぱりわからなくなっていました。
松葉舎ってなんだ?と思われた方はこちらのリンク先をご覧ください。私の言葉では説明しきれないのです。
どうしてもゲームで例えてしまうのですが、ロールプレイングゲームでの旅の途中に新しい大陸に続く道を見つけてしまったような感じです。とても大きな大陸がその先には広がっていて、今までと全く違う環境があり私のやりかたは役に立たなそう・・・という空気がふんだんに感じられる。
ふんふん♪と同じ大陸のちょっと先の町を目指して歩いていたのに、偶然そんな道を見つけてしまって。目的地を目指すという大筋は変わらないにしても、この偶然見つけた道を通って向かいたい!そういう気持ちだけははっきりとしているのですが、なにぶん初めての土地で勝手が分からないし今までの思い込みや装備品を捨てないと進めないという不安。混乱していました。
それがどいういうこと(新しい大陸におけるテーマ)なのかすら、まだはっきりとしてはいないのですが、今ひねり出せるキーワードは
人における頭「知的な活動」とこころ「情動的な活動」には明白な区別がないこと
『これが自分だ』と感じている範囲というのは、自分の肉体よりもさらに広くて、家族単位や町単位、国単位、どこまでかわからないけどとにかく広いこと
自分が自分だと思っていたことが全部ぐっちゃぐちゃに崩れてしまったのです(去年からわりとそんな事ばかり続いているので驚きませんが)。他人と自分の境界線ってあるんだろうか。
他人と自分を比べて悩むなんて意味がなくなっちゃうなー(だってその他人さんも自分の一部だから)。客観的とか論理的にまとめたものであっても、その出発点は感情的なものだったりする。もうどうしたらいいかわからないよ・・・。
一方で、私という肉体的な感覚から学ぶことも続いています。立つ・歩く・座る、その動きの見えるところと見えないところ。
体の動きと意識とを連動させることで、新しい(というかかつてを思い出す)体験ができます。肉体感覚から見えてくる「自分だと思い込んでいたもの」もまた、それまでの私の理解をぐっちゃぐちゃにしています。
そこでこのタイトルです(なんの脈絡もない感じがしますが、私の中ではつながっています(;´Д`))。『意地の張り合いを誰が先にやめるのか』。
あの人が、あの場所が、あのときが、私をこうさせているんだという考え方をもう捨てていいんじゃないかと思っています。
勝手にあの人を立たせ、あの場所を作り、あの時をこしらえて、それらにぐるぐるひもを巻きつけてぴんと張り、グイグイとひもの端を引っ張り続けて疲れだのの苦しいだの辛いだの言っている。
ひもを引っ張り続けなきゃいけないのはあちらが引っ張ってくるからだと言う。確かに相手から勝手にひもを巻き付けられていることだってあるだろうけど、そんなことはどちらでもよくて。
要は今すぐに引っ張るのも引っ張られるのもやめてしまえばいい。そして先にやめるのはあの人でなく、あの場所でなく、あのときでもなくて、今ここにいる自分から。
武術研究家の甲野義紀先生は『相手の力に拮抗するようなやりかたでなく、相手の力とは全く違う方向へ力をかけることによって新しい動作を生む』というようなニュアンスのことを言っています。武術未経験の私は、それを自分に置き換えてみました。意地の張り合いという力比べから降りてしまおう。
感覚だけでここまで書きつらねて申し訳ないのですが、まだそれを理論立てて説明するだけの頭がないので今日はここまでで。
次回の『クレイ体験と体をゆるめる交流会』は2月20日(月)午前中です。夜の部も検討中。参加希望の方は「○曜日の夜にやってほしい」などリクエストくださると助かります。