独立研究者の森田真生先生と武術研究者の甲野義紀先生。とても興味あるお二人の対談!たまらなかったー。
数学から身体や精神を捉える森田真生氏と武術と向き合う中で身体と精神本質を捉えようとする甲野義紀氏の対談を聞いてきました。
そこで森田氏が言っていた言葉がまさに書きかけの記事とリンクする内容で。まずは書きかけの記事をお読みください(・´з`・)
あらかじめ予告しておきますが、今回もつれづれ系の記事です。
↓↓↓↓↓
今振り返ってみると、私の10代は追い詰められた感や焦燥感、居場所のなさ、そういたものからどうにかして逃れたい一心だったように思います。
その根底にあったのが、あるとき気付いてしまった『わからないという不安』。小学校の低学年くらいからじわーっと感じ始めていたように思います。
学校での勉強が大好きだったんですね。家では母親にお願いして本屋さんで問題集を買ってもらい、喜んで取り組んでいた記憶があります。学校の授業も面白くて。新しい名前や物の見方を知る。新しい漢字や計算方法、植物の名前、なんかねどれもこれも面白かったのです。
新しいことを知る・身につけていく楽しさを感じる一方で、うっすらと気づき始めていたのが『世の中には私が知らないことがものすごくたくさんある』ということ。大人になるということは、世の中のもろもろを知って完成!落ち着くということと漠然と思っていたんでしょうね。なのに『わかったこと』以上にそれにくっついてきて見えてしまう『それ以外のわからない世界の広さ』にすっかり打ちのめされてしまったんですね。
ひとつのことを知ろうとすればするほど疑問が増えるわけです。数について教わりますよね。1のくらい、10のくらい、100のくらいの足し算をしてみる引き算をしてみる。するとわかることというのはその計算方法だけじゃなく、1000のくらい、10000のくらい・・・・・もっともっとたくさんの数がある。足し方や引き方がわかると、漠然とですがそれを効率よくする方法やさらに発展させた数の扱い方があるんだろうということを子どもの頭で感じたんですよね。つまりわかればわかるほど、終わりがない広ーい世界のたった一部しか知ることができないんじゃないかということを体が感じたわけです。
年を重ねて大きくなるうちにわかるものと思っていたんですよね。私のための場所、私のための職業、私のための友達、私のために「ここだよー!」と待っていてくれる、安心して過ごせる場所があって、いろんなことを知っていくうちにそれがどこにあるのかわかるものだと思っていました。
なのに知ろうとするほど疑問は増えるし、あっちにもこっちにも矛盾が散らばっている中で日常が動いている。とんでもないスピードで広がり続けている宇宙の端に追いつくことができないように、「ここだよー!」を見つけたくて近づこうとしてもさらに遠のいていくという不安に耐えられない時期がありました。なかなか暗い子どもですよね(;´Д`)
↑↑↑↑↑
「小学2年生くらいの頃、自分が死んだあとにも時がずーっと続いていくんだということがとても恐ろしく感じられて数日眠れなかった」
森田氏が対談の中で話していたことです。おおよそこんな感じ。
永遠に全てを知ることができない。コントロールすることができない。つかむことができないまま世界が勝手に動いていく恐さ。『わからない』恐さ。
森田氏甲野氏が言う『わからないことをわからないまま楽しむ』。もうこれしかないんですね。探そうとすればするほど、見えない見つからないことばかりわかってしまう。ならば『いまいる場所にどっぷりと浸かる』『いま面白いんだと腹の底から感じている物事の本質を知ろうとする』ところから、理屈としてでなく、言葉にならないかもしれない『わかった!』を集めていく作業をこつこつと続けていくことが『わからない不安』を克服して楽しむ方法なのだなと感じました。
お2人の竹刀対決、面白かったなあ。甲野氏に負けるかと集中して本気で構える森田氏の表情が、生きることを喜んでいるように感じられました。なんかそういうの、いいな。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
小田急線梅ヶ丘のかわいい美容室でクレイパックエステ
今月は4/25(火)です。受付中!
サロンメニューを2017年3月に新しくしました。
グーグルマップで調べると徒歩11分笑
UZUMAKI、無料メールレッスンやってるってよ。
UZUMAKIのLINE@ご登録ください♪
コメントや質問への反応もここが一番早い!(*´ω`*)